緑豊かな自然林。
梢を飛び交う各種の野鳥。
都会の喧騒から隔絶されて息づく"島松コース"を、
かつて故・奥田義正 第2代理事長は、「樹海に象眼されたコース」と表現した。
島松は「シュマ・オ・マップ」とも「シママップ」とも言われた。「シュマ」は石。「オマ」はある。「プ」はものの意味とかで石のある川と言うことのようだ。松浦武四郎の「西蝦夷日記」には「この平盤なる地」地名を「シュママップヘッ」というとある。
明治6年の春、中山久蔵は胆振と石狩の国境島松川あたり、本村島松(当時月寒村)の地に水稲を試作、寒地稲作の端緒を開いた。明治10年には、札幌農学校教頭W・Sクラークが月寒村島松で学生と別れ、「青年よ大志を抱け」の金言を残した地でもある。明治26年広島開拓に大曲、島松を加えて、広島村、現在の北広島市の前身となったのである。
初代理事長
同クラブ名誉理事長
故・大野 精七
略歴
昭和36年札幌国際カントリークラブ理事長・株式会社島松ゴルフ場取締役・同49年同クラブ名誉理事長。
札幌医科大学名誉教授。
北海道大学名誉教授。
北海道スキー連盟名誉会長。
同57年12月30日死去。
第2代理事長
故・奥田 義正
略歴
昭和36年札幌国際カントリークラブ理事・同37年常務理事・同39年副理事・同40年株式会社島松ゴルフ場取締役・同49年同クラブ理事長。
北海道大学名誉教授。
同53年4月8日死去。
今は亡き大野精七初代理事長の軽いことばがきっかけだった。「9ホールでいいんだ。ごく気楽に年寄りがやれるコースを作ろうじゃないか。」昭和36年、ある会合で出されたことばが、聞くものの間で現実味を持って響いた。すでに機は熟していたのだろう。刺激となったのは、輪厚(札幌ゴルフ倶楽部)の誕生(昭和33年)だった。輪厚は、多数の力が結集した社団法人組織によって作られた。大きな力がなくても出来る、そんな気運が生まれていた。
用地の物色や資金作りが始まった。用地は、当初、大曲にあった薬草園に目が向けられた。しかし、これは間もなく断念された。北海道を"日本の食料基地"とする国の施策が示され、既存の農場をゴルフ場に転用することが難しい環境だったためである。いくつかの候補が浮かんでは消えた。そこに持ち込まれたのが、島松で100ヘクタールの土地が4000万円で買えるという話だった。計画が急進展した。当時の資料によれば、買収金額5200万円、面積104ヘクタールとなっている。
開場記念植樹をされる故・高松宮殿下
故・奥田義正第2代理事長を委員長とする建設委員会が11人構成で編成された。
「どんな芝を植えたらいいのかまったく判らず、自分の部屋に10何種類の草の種を持ってきて、鉢植えにして生育してみた。結局、シーサイドベントが一番良いとなり、ただしグリーンは2グリーンなので一方をアストリヤベントにしてみた。」と当時の奥田建設委員長が語っている。そもそも、ゴルフを楽しもうという仲間が始めたゴルフ場造成なので、資金的ゆとりがないために、経費を出来るだけつめようと土木費を抑えた。ブルドーザーを使うのを出来るだけ避け、なんとか自然の地形を活用する形とした。
さらに苦心したのは給水設備。当時としては思い切って、深さ約200メートルの井戸を掘削。1日80トンの水量を確保した。また火山灰地と言う土壌も問題だった。当面の芝の生育には支障ないものの、将来的な不安が残っているため、フェアウェイには20センチ、グリーンには30センチの表土をおいた。これに1000万円の費用が注ぎ込まれた。
昭和38年8月1日 コース会場式典
会場間もない頃は林間整備も人力で
これに先立つ昭和36年9月、株式会社島松ゴルフ場(佐藤貢社長)と札幌国際カントリークラブ(大野精七理事長)が設立され、同時に会員及び株主の公募が開始された。会員権は個人15万円、法人25万円。これにそれぞれ株券5万円が加わる。つまり、クラブのメンバーが同時に経営会社の株主でもあるという、斬新な株式会員制のスタイルが採られたわけである。
募集は順調だった。いや、順調すぎるほどだった。1次募集300名のところに3倍の申し込みが殺到し、2次まで一緒にやってしまったという事実が、人気を物語る。「集めすぎて叱られた」と、ある委員は言う。63年の12次募集に至るまで、道内では札幌国際カントリークラブくらいかもしれない。
昭和38年8月1日 コース会場式典
さて、38年8月、北海道の抜けるような青空の下で島松はオープンの日を迎えた。9ホールによる仮オープンとはいえ、メンバーの喜びは大きかった。33年に出来た輪厚だけでは足りないほど、ゴルフ人口も増えていたからである。ただ、島松が本当のゴルフ場と認知されるに至ったのは、やはり翌年4月に18ホール本オープンしてからである。営業収入も、38年の1300万円から39年には5100万円に急増している。
昭和38年8月1日9ホールの仮オープンにテープカットする高松宮妃殿下
45年6月からは9ホールの増設工事が始まった。隣接地10ヘクタールを買い足しての増設だった。関係者の間で、レイアウトその他に関し種々の論議が交わされた末に、現在のCコースの形となったが、苦労のかいあって、トーナメントプロの目から見ても「味のあるコース」との評価を得ている。これは翌46年7月に完成を見た。併行して増改築工事の進められていたクラブハウスが、完成目前の46年4月に出火焼失するというアクシデントを乗り越え、旧ハウスは現在のクラブハウスが平成6年に完成するまで使用された。
第3回から(最後の)第26回迄開催
「札幌とうきゅうオープン」
写真は昭和57年の第10回大会
以来、島松は、評価を年毎に高め、"北海道の島松" "日本の島松" と称されるまでの道を歩んで今日に至っているが、その陰に島松をいつくしみ愛した1480人のメンバー、コースを大切に守り抜いてきたキーパーたち、故・大野初代理事長のモットーとした「親切」を今に引き継ぎ実践している従業員などの尽きぬ努力があったことは言うまでもない。
本道ゴルフ界発展に寄与する目的から当クラブでは、いち早くプロゴルフ・トーナメントの定着を図った。昭和44年には第1回全日本プロゴルフダブルストーナメントを開催、以来48年の第5回大会で幕を閉じるまで、プロの高度な技術が道内ゴルファーを魅了し、ゴルフ熱を一段と高める作用をもたらした。
また、昭和50年には第3回札幌とうきゅうオープン・ゴルフ・トーナメントが開催され、最終の第26回大会迄連続して会場となった。
第1回全日本プロダブルス優勝の杉本・村上組
大会回数 | 開催年度 | 参加人数 | 優勝 |
---|---|---|---|
第1回大会 | 昭和44年 | プロ16名 | 杉本 英世・村上 隆 組 |
第2回大会 | 昭和45年 | プロ20名 | 杉本 英世・村上 隆 組 |
第3回大会 | 昭和46年 | プロ28名 | 内田 繁・石井 弘 組 |
第4回大会 | 昭和47年 | プロ60名 | 尾崎 将司・村上 隆 組 |
アマ20名 | 高橋 一成・新井 誠一 組 | ||
第5回大会 | 昭和48年 | プロ64名 | 杉本 英世・村上 隆 組 |
アマ20名 | 高橋 一成・新井 誠一 組 |
大会回数 | 開催年度 | 優勝 | スコア |
---|---|---|---|
第3回大会 | 1975 | G.マーシュ | 71, 71, 71, 67 ( 280 ) |
第4回大会 | 1976 | B.ダンク | 72, 67, 69, 70 ( 278 ) |
第5回大会 | 1977 | 宮本 康弘 | 68, 70, 74, 71 ( 283 ) |
第6回大会 | 1978 | 青木 功 | 70, 69, 67, 72 ( 278 ) |
第7回大会 | 1979 | 宮本 康弘 | 69, 67, 71, 73 ( 280 ) |
第8回大会 | 1980 | 謝 敏男 | 74, 70, 68, 70 ( 282 ) |
第9回大会 | 1981 | 陳 志忠 | 70, 66, 74, 69 ( 279 ) |
第10回大会 | 1982 | 船渡川 育宏 | 68, 69, 67, 72 ( 276 ) |
第11回大会 | 1983 | 青木 功 | 72, 65, 71, 66 ( 274 ) |
第12回大会 | 1984 | 尾崎 直道 | 71, 69, 68, 72 ( 280 ) |
第13回大会 | 1985 | 杉原 輝雄 | 70, 65, 70, 75 ( 280 ) |
第14回大会 | 1986 | 青木 功 | 65, 67, 72, 69 ( 273 ) |
第15回大会 | 1987 | D.イシイ | 67, 68, 70, 71 ( 276 ) |
第16回大会 | 1988 | 尾崎 直道 | 70, 74, 64, 71 ( 279 ) |
第17回大会 | 1989 | G.マーシュ | 71, 65, 76, 70 ( 282 ) |
第18回大会 | 1990 | 中村 忠夫 | 69, 67, 75, 67 ( 278 ) |
第19回大会 | 1991 | R.ギプソン | 71, 71, 68, 70 ( 280 ) |
第20回大会 | 1992 | 湯原 信光 | 73, 68, 72, 68 ( 281 ) |
第21回大会 | 1993 | B.ジョーンズ | 69, 67, 69, 69 ( 274 ) |
第22回大会 | 1994 | 水巻 善典 | 65, 70, 68, 74 ( 277 ) |
第23回大会 | 1995 | C.フランコ | 68, 69, 69, 72 ( 278 ) |
第24回大会 | 1996 | 飯合 肇 | 70, 64, 72, 73 ( 279 ) |
第25回大会 | 1997 | 宮瀬 博文 | 67, 70, 66, 72 ( 275 ) |
第26回大会 | 1998 | 鈴木 亨 | 65, 69, 69, 69 ( 272 ) |
大会回数 | 開催年度 | 優勝 | スコア |
---|---|---|---|
第1回大会 | 2000 | 尾崎 将司 | 74, 68, 66, 68 ( 276 ) |
大会回数 | 開催年度 | 優勝 | スコア |
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第1回大会 | 2006 | 全 美貞(ジョン ミジョン) | 71 70 67 208 |
第2回大会 | 2007 | 大山 志保 | 66 72 71 209 |
第3回大会 | 2008 | 不動 裕理 | 69 68 70 207 |
第4回大会 | 2009 | 全 美貞(ジョン ミジョン) | 71 68 68 207 |
第5回大会 | 2010 | 不動 裕理 | 69 67 68 204 |
第6回大会 | 2011 | フォン・シャンシャン | 68 67 67 202 |
第7回大会 | 2012 | フォン・シャンシャン | 72 70 67 209 |
第8回大会 | 2013 | ナ ダエ | 67 70 67 204 |
第9回大会 | 2014 | 申 ジエ | 70 66 68 204 |
第10回大会 | 2015 | 西山 ゆかり | 69 70 69 208 |
第11回大会 | 2016 | イ ボミ | 69 67 70 206 |
第12回大会 | 2017 | 森田 遥 | 68 71 67 206 |
第13回大会 | 2018 | 福田 真未 | 69 64 68 201 |
第14回大会 | 2019 | ペ ソンウ | 68 67 69 204 |
第15回大会 | 2022 | イ ミニョン | 70 70 67 207 |
第16回大会 | 2023 | 鈴木 愛 | 66 68 67 201 |
第17回大会 | 2024 | 竹田 麗央 | 68 70 66 204 |